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がんばれ東宮職!
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同じ学友といってもこうも違うものかしらねw

つまり幼稚園の後期1年間と、学習院初等科の6年間と、それに続く東宮御学問所時代の7年間を、私は陛下と机を並べて学ぶことになったわけです。
(略)
そのご人格は、当時学習院院長だった乃木希典将軍を初めとする、明治のエリート中のエリートによる帝王教育にもよるのでしょうが、私には、より多く、生まれながらの、すぐれた御資質にあるように思えてなりません。
(略)
陛下は真正直なかたですから、必ず正しく答えねばならぬと、習ったことはその授業中に頭にいれてしまう訓練が身についてしまわれたのでしょう。
また、事実、ご記憶もたいへんよろしかったように覚えております。
しかし、だいたいがご器用なかたではなく、こつこつと確実に積み重ねていかれるタイプでした。
歴史は特にお好きで、「世界興亡史」を毎日夢中になって読んでおられました。
(略)
東宮御所での陛下のご日常は規則正しいもので、毎朝6時には必ずご起床。7時にはご朝食。それからお机に向かい読書あるいはご登校の準備をご自分でなされ、7時40分には御学問所へいらっしゃる。
8時にご始業。午後1時45分まで授業を受けられて、御学問所からお帰りになると、5時までお今で予習、復習をなさる。
この間に、途中1時間ばかり屋外で、運動。午後5時、夕食。
それから再び屋外に出られ運動。夜は読書や絵画をごらんになり、8時には床にお入りになる。
(略)
初等科時代、どちらかというと、おからだはお弱いほうでしたが、侍医たちが規則正しい生活で陛下のご体質改善をはかり、ご自分もよく節制されて、しだいにご壮健になられ、馬術に、水泳に、みごとなご進境を示されました。

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「きょうは、私がふだん愛読しております書物を殿下にさしあげたいと思って、ここに持ってまいりました。『中朝事実』という本でございまして、たいせつなところには私が朱点をつけておきました。いまはおわかりにくいところも多いと思いますが、殿下がご成人なさいますと、この本のおもしろみがよくおわかりになると思います」
そのあと、乃木大将は、淳宮(秩父宮)光宮(高松宮)の両殿下にお目にかかって、「お仲むつまじく、お兄上さまをお助けなさることがなによりたいせつでございます」と申し上げ、静かに御所を退出して行かれたそうだ。(前記事画像内に該当部分あり)


乃木院長が昭和天皇に最後のお別れとして渡した愛読書「中朝事実」だが、これって山鹿素行だよね。
江戸初期、会津から出てきて9才で林羅山の弟子になり、勉強したけど、幕府の正学である朱子学を批判して赤穂へ飛ばされた。
そこで赤穂藩で先生になった。
大石良雄も門弟の一人だった。
赤穂浪士討ち入りの時、長谷川一夫が打ち鳴らした「山鹿流陣太鼓」。
ま、知ってることはこれくらいで^^;
兵法学者というのか軍学者というのか、そういう人なので、乃木さんは陸軍だし武人として最後のお別れを言ったのかと最初思ったんだけど。

<中朝事実>
山鹿素行が赤穂謫居中に著した漢文体の書。1969年(寛文9)脱稿、1巻。
中朝とは中国が自国を中華とよぶのにならって日本をさす。
天先・中国・皇統・聖政・礼儀・賞罰・武徳など13章および付録の或疑に区分され、各章には【日本書紀(おもに仁徳朝以前)】【古語拾遺】などの文を掲げ、これに自己の意見を加えている。
今日からみれば要するに古代の神話伝説に対して一種の儒教的解釈を試みたものにすぎないが、素行の意図は、道徳思想を自国の歴史的事実に結びつけることにより、これに具体性を付与することであって、次著<武家事紀>とあわせて、素行における学問の実証主義化の傾向を示す点が注目される。

乃木院長がどんなところに朱点をつけたのかはわからないけれども、昭和8年、この中朝事実を解説付きで文部省が日本思想叢書のうちの一編として発行するんです。
乃木さんが頒布したものがあるらしくそれを底本にしてます。
さすが文部省が出しただけあって、私でも読めますw

第一次世界大戦の後、軍縮と国際平和協調路線が続いていた国際社会も、ウォール街の株暴落をきっかけに世界大恐慌の嵐が吹き荒れ、不況の波は人心を蝕み、生きていくために親が娘を売る、人身売買が横行する世の中に国はあわてたんでしょうか?

ちなみにこの年に今上陛下がご誕生になってます。

翻って思ふに、人は少年期を終わり青年期に入るといふと、知見頓に開け、従来見ざる世界が展開する。独立心は旺盛となり、反抗心は強くなる。この際、会心の説に出会ふと、是こそ最終の真理なりと思ひ込み、他人の説は一切受け入れぬ。而して之を基準として言動するから、其の果結、往々にして身を過ち世を害ふのである。それが歳月を経て、知恵と経験とが積むと、昨非を悟って中正の道に復し、此に確乎不動の信念を獲るものである。聡明卓識なる先生も亦さうであった。注意すべきは青年期の妄信軽挙である。(中朝事実・文部省蔵版、8頁)

この後、昭和11年2月26日、いわゆる2・26が起こる。
「決起せざるを得なかった兵士たちの気持ちをきっと陛下はわかってくださる」この言葉に乗せられて、青年将校の指揮に従った兵士たちは反乱軍となった。
昭和天皇、時に35歳。「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校ら、 その精神に於ても何の恕すべきものありや」
昔は人が老成するのが早かったとはいえ、35歳でしょ、若い。
すごい決断だよね。
杉山元帥なんか、ちょっと一杯ひっかけて御前に出、帰って来て「天ちゃんに叱られちゃった」などと言ったというエピソードがあるくらいだから、案外若いということで陛下は甘く見られていたんじゃないかと私は密かに思っている。

しかし、天皇親政ではなくあくまで立憲君主の道を選ばれた昭和天皇の決断は、おそらく幅広く学んだ学問の上に立脚してのものだったんじゃないか。
かつがれていた方がほんとは楽なんだけど、中には天皇を恨んで死んで行った人もいる。
こういうのを背負って行くんだから、ほんとにすごい。
結局は、「大きい決断」が出来るかどうかだよね。
終戦の時の「聖断」でも、昭和天皇だからできた、という気がしてます。

あら、ちょっとはずれた。
文部省版が道徳を目的として出したのは昭和8年だけれども、乃木院長が昭和天皇に中朝事実を渡したのは、大正バブルが始まる前だった。
大正時代ってのは、案外国際的で、うちの姑さんは、ハイカラさんよろしく、上海なんかへ遊びに行ってる。
帽子かぶって毛皮の襟巻してねw父親はステッキついて娘に腕を貸してエスコートしてる写真が残ってます。
第一次世界大戦後、日本は戦勝国として若干潤ったからね、都市部では中産階級が出来てきたんだね。

乃木院長の頒布本では、解題の最後でこう言っている。
面倒なので、意訳。

「外国のものを何でもかんでも有難がったりするのは愚である。
(略)
中朝事実の細事に至っては凡ての先人の著書がさうである如く、今日から見れば多少の不合理もあらう。しかし先生の人格的態度は永久に敬慕するべきではないか。」

明治は外国からいろんなものを取り入れた時代でもあったけれど、人格的なものを学ぶのに、足元を見ろ、ということですかね。
いわゆる国学は、皇道派や国粋主義者によってとりあげられ、統制派に対抗するための理論に利用されていたが、乃木院長がそれより20年以上も前に昭和天皇に示したものが「山鹿素行」だったことに、何かホッとするものがある。

終戦の工作に「バチカンに終戦のあっせんを頼むことは出来ないか?」というくらいの外交センスをお持ちの昭和天皇ですから、乃木院長は、先見性というよりは、絶妙なバランス感覚でもって皇統を考えるきっかけにしてもらいたかったのかもしれません。
 

私の高校時代の悪友が学習院大学に合格したくらいだから、まぁ、普通の大学だろうなと思っていたけれども、(友人も「(家柄とか何とか)あんまり関係ないみたい」と言っていた)よく考えてみれば、彼女が学習院大学へ行った時は、たまたま皇族の方がいらっしゃらなかった(旧皇族とか旧華族の方はいらっしゃったかもしれないが)からであって、いざご入学となれば、と言うより皇族の子女がお生まれになれば、まず幼稚園、初等科、中等科と学校側では準備を始めるのだろう。

角川の皇室事典によると

★前近代の帝王教育
【皇族・皇嗣の教育】
いわゆる帝王学は、将来天皇となるに必要な資格や見識などを身に付ける学問であるから、むしろ帝王教育と呼ぶ方がふさわしい。それには、いくつもの要素が含まれる。

そのひとつは、皇室に生まれる人々は、”皇族として育てられ、皇族である限り(略)その品位を養い保つために、幼少期より親族や側近などから相応の指導を受ける。いわば皇族教育である。

もう一つは、いずれ行為を受け継ぐ皇子は、皇嗣と定められ、”立太子の儀を経て即位するまでに、天皇となる心得を親族や側近などから修得する、いわば皇嗣教育である。
ただ、皇嗣は第一位が皇太子であり、また万一に備えて第二位以下の有資格者たちも、皇太子に準ずる教育を受ける。また皇嗣は天皇となってからも、国内外の公務や祭祀を遂行するために、みずから勉学を続けている。

その教育に当たった側近は、多様で一定しない。ただ8世紀初めに完成した『大宝令』では”東宮(皇太子)に仕える職員のうち、東宮傅一人が「道徳を持って東宮を輔け導くこと、東宮学士二人が「経を執り説き奉ること」と定められ、また”親王に仕える文学一人も「経を執り講授けるすること」が職務とされている。



なのだそうで、昔から天皇になられる方、あるいは「有資格者(今でいうと皇位継承順位のついてる方)」は、お勉強することが人生であり、重要な仕事だった、と言えそうである。

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★近現代の帝王教育
【明治天皇】
1.5歳前後から孝明天皇に和歌の添削指導を受ける。
2.同時に学友裏末良光らと「四書五経」の素読に励む
3.数え16歳で践祚、外祖父中山忠能の勧めで、順徳天皇の「禁秘抄」や後醍醐天皇の建武年中行事」など学ぶ。
4.東京へ移ってからは(明治3年)、「御手習」「御乗馬」「史記」「保健大記」「神皇正統記」「資治通鑑」などの学習が日課となる。
5.侍読(のち侍講)の秋月種樹や国学者の福羽美静らから「古事記」「日本書紀」「十八史略」「皇朝史略」「貞観政要」など和漢の書を学ぶ。とくに「貞観政要」は、帝王学の教科書とされた書であり、儒学者で侍講の元田永孚が進講した。
6.「西国立志篇」や「国法汎論」(ドイツの政治学者ブルンチェリー著)などの洋学や政治学も国法学者加藤弘之などから学んでいる。

※国法学者加藤弘之は、東大初代綜理・二代学長で、最初は天賦人権説を説いていたが、民権思想家の活動が活発になると社会進化論の立場から反対するようになり、ついには自著「国体新論」を自ら否定し、絶版にする。
孫の濱尾四郎の息子が、徳仁皇太子殿下の教育係、「オーちゃん」こと濱尾実氏。

7.明治7年、新学問所設置。
  同年、侍従長の東久世 通禧が「君徳培養」に関する上奏をなし、臣下への愛、軽率さや些末さの抑制、飲酒の制限など天皇の帝王としての態度を進言。
  さらに、御談会が開催され、区内大臣や侍従長、侍読らと歴史上の人物の治績などの議論を重ねた。
  明治10年以後には、御歌所長の高崎正風を師として和歌の修練を積み、ほとんど毎日公務の合間に詠み続けた。(生涯で作られた御歌の清書、93032首)


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ここで今の庶民(私)がフツーに「なにが書いてあるか」くらい知ってるのは、
「史記」「古事記」「日本書紀」「十八史略」
高校の教科書に出てきて、名前だけ知ってるのは
「資治通鑑」
くらいかな。
資治通鑑=編年体って試験に出たでしょw

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【大正天皇】
1.幼少から病気がちであったため学習院入学前に特設された御学問所で個人教育を受けた
教育担当傅育官は文部省編輯局・湯本武比古、自らが編集した「読書入門」を講義。
2.学習院に編入学し、邦芳王らを学友とする。
3.病気のため学習が遅れ、東京帝国大学の国学者本居豊穎(本居宣長の曾孫)や漢学者三島中州ら東宮職御用掛として個人教授。
4.有栖川宮威仁親王を東宮賓友として、全国行啓による体力回復と学力向上をめざした。
5.三島の影響で漢詩などの才をのばした。

【昭和天皇】
1.皇室旧来の慣行に従い、生後70日目から3年余り、川村伯爵家に預けられた。
2.日露戦争直後の明治38年、4月満四才から3年近くの間、赤坂の皇孫仮御殿において弟淳宮(のちの秩父宮)および5人の学友とともに、幼稚教育を施される。
3.明治41年4月満7才から6年間学習院初等科で男子12人の学友たちと学ぶ。
4.初等科卒業後、乃木の構想で高輪東宮御所内の東宮御学問所において、大正3年春から同10年春まで5名の学友とともに教育を受ける。

・総裁 東郷平八郎
・副総裁 東大総長 濱尾新(男子がなかったので、※東大初代綜理加藤弘之の息子・照麿の四男四郎を養子に迎える)
・幹事 小笠原長生(東郷の副官)
・教務主任(兼歴史担当) 東大兼学習院教授 白鳥庫吉
・各教科 東大・学習院教授(国文・漢文・歴史・博物・仏語・美術史)、陸海軍将官(馬術・軍事講話)
・倫理(帝王学) 杉浦重剛(理学専攻・英国留学中理系で優秀な成績を取るが、帰国後は教育者の道を歩む)



良子皇后、お妃教育中杉浦重剛の講義を受けておいでです^^
歴史担当の白鳥庫吉の弟子が神武天皇以前の神代史で有名な津田左右吉。古代史を歴史は歴史としてみるという考え方に基づいて研究していたが、蓑田胸喜のような国粋主義者の●印にからまれて「不敬」だと騒がれ、発禁処分を受けた。蓑田胸喜は同様に美濃部達吉(天皇機関説事件)滝川幸辰(滝川事件)大内兵衛追放などのきっかけとなる批判論文を書いている。
  

昨年の武道館はご両親とごいっしょだったが、今年の春には皇后さまに連れられて上野の東京文化会館へお出ましになり、シューベルトの未完成交響曲を熱心にきかれた。
この日も休憩時間に貴賓室でおやすみになったとき、皇后さまの目の前でコンダクターを大熱演。
おばばさまをころころとお喜ばせになった。

香淳さまは美しいコロラチューラソプラノでよく歌をお歌いになっていたとか。
昭和天皇は「音楽については私は不案内で、そのかわり皇后が詳しいので(音楽会などでは)皇后のまねをして拍手などをしています」とおっしゃっています。
なので、香淳さまは、音楽が好きな孫を連れて音楽会においでになられたのでしょう。
昭和の両陛下は、本当にお孫さんを可愛がっておられたんですね。

この文章、すてきだわ。

おばばさまをころころとお喜ばせになった。

きっと香淳さまはころころとお笑いになるのね。
お写真でしか拝見したことないけど、本当に笑顔が多いものね。
お二人のご様子が手に取るようにわかります。
その上お声さえ聞こえてくるような。


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某掲示板で知り合って、メールをやりとりするようになった仲良し?人組です。
考え方はそれぞれですが、皇太子様御一家を陰ながら応援したい気持ちは一致しています。
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