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がんばれ東宮職!
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昭和天皇さまは何を持っておいでかな?
ウミウシだろうか?
なまこ?
香淳さまも磯の採集のお手伝い。
なんといとおしそうな眼差しでいらっしゃるのでしょう!

生物には親も子もあろうから元の場所へ戻してほしい
泣けてしまうお言葉であります。

で、ルビー様のそのエピソードを再掲。

でも、長男夫婦をハブってるのは、この優しい御方の息子なんですよね?


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 和船「たけ」も嫌だったのでは? 昔たけが乗せた人々のエピソード
昭和天皇が海洋生物の採集に使っていた和船「たけ」。 
それについて、昭和天皇は、研究論文の序文で紹介しています。その内容が、あるサイトで紹介されていました。 

「和船の「竹」および「桃」は磯へ渡るとき、採集船へ乗り移るときに用いたが、昭和22、23年頃は、大型の採集船が無かったため、採集にも用いた。 
このたび相模湾産ヒドロ虫類の研究報告を2部に分け、まず最初にそのI 無鞘類を発表することにした。」 

序文の終わりには、「昭和63年1月 裕仁」とあって、 
「(註)陛下は「相模湾産ヒドロ虫類」の第1巻を完成され、第2巻は完成を待ち望まれながら、その途中でご他界あそばれた由である。」と注釈がありました。 

この序文を紹介していたのは、採集船葉山丸の艇長だった方でした。旧海軍出身の方のようです。その方の想い出によると、 

「船のご座所入り口で陛下をお迎えして最敬礼、頭を挙げるとps12 呎尺の間に陛下のお顔が、『よろしく』と帽子を手で上にあげられた。ハハアーと再び最敬礼、足がガタガタ震えるのをどうしようもなかった。何十万何百万の同胞が、この方のために身を捧げた。そのお方が今、私の目の前におられる。」 

「投網後、一時間余り曳いて揚網手動の巻揚機で、我々はもちろん宮内庁の人々も一緒になって、ワッショイ ワッショイ 泥まみれで働く。今まで雲の上の人の如く思っていた人々が、我々と一緒に冗談をいいながら明るく泥だらけで働く様子はまことに意外であり、トゲトゲしい娑婆を忘れて心の和ぎを覚えた。」 

「『生物には親も子もあろうから元の場所へ戻してほしい』と陛下がお望みなので、また1時間もかけて泥も石も一緒に元へ戻し、ようやく夜の帳のおりる静かな海を基地へ急ぐ。こうして、長い長い第一日目は終わった。本当に感動と緊張に満ちた人生のひとコマであった。」 

「シケの日を除き、冬休み約20日、夏休み約40日の出漁を続ける。陛下は当時御歳50歳、本当に葉山丸でのご生活を楽しんでいらっしゃったようだ。しかし、終戦後未だ日は浅く、陛下のお胸には常に幾多の股肱を無くされたお悲しみが秘められ、近くにいると痛いほどわかるとは侍従の言葉であった。 
当時の葉山丸は、そのままの姿で江田島に近い大三島の博物館に静かに眠っている。」 

なんとも、心に色々な思いがよせてくるお話です。 
和船「たけ」も、そのような場で使われていた。そして博物館に保管されていた。それが・・・。 

「葉山御用邸で静養中の天皇陛下は14日朝、御用邸前の海で皇后さまや秋篠宮妃紀子さま、3歳になったばかりの秋篠宮家の長男悠仁さまを乗せ、和船をこがれた。 
この和船は昭和天皇が海洋生物の採集のため使っていた「たけ」という名の船で、長さ約7メートル、幅約1・6メートル」 

こうして和船「たけ」を、博物館から出して、たびたび漕いでいた、今上天皇の様子は、 
「自らが櫓を漕ぎ、美智子さまと、秋篠宮ご夫妻、孫の悠仁さまを乗せて楽しそうに過ごす、その姿は誰が見てもほほえましい光景だった」と、今週の「週刊朝日」に紹介されています。 

ぜったいに、ほほえましくましくない!と私は思うけれど。 

しかし、その週刊朝日も、今週号で、2010年9月に起きた、陛下の狭心症発作の様子を記事にしています。 
「だが、岸に戻った天皇陛下は突然、前かがみになり、しゃがみ込んでしまう。そばにいた侍医が脈や血圧を測り、緊迫した空気がしばらく続いたという。」 

同胞の思いを胸に、昭和天皇と過ごした人々や、 
生物と触れあいながら、日本の国民への重たい悲しみに耐えていた昭和天皇自身。 
そんな記憶を持った船「たけ」を、国民を裏切るような行為に使ったから、罰が当たった。 
そういうことなんじゃないかなあ。 
ルビー
  

思えば昭和皇室の正月写真は新年の喜びに満ち溢れていた。
良いことばかりではなかったと思うが、それでもお正月には「今年はいい年にしたいね」「そうですね、お上」と言い合っておられるようなそんな写真だった。

平成皇室から「祝ぐ」という雰囲気が消えて久しい。
シンメトリーに並ぶ皇室の方々の正中線は見事に美智子皇后になって、5年前には夫婦スワップ(正月早々お下劣な言葉でごめんなさい)まで加わった。
今まで後ろに立っていた鯰夫婦が前列にしゃしゃり出て来て、代わりのように5歳の敬宮殿下が後列に立たされた。
小さなお顔しかでていない写真を見、、敬宮殿下がジャマにされているような感じを持った。

それから毎年毎年、今年はどんなふうに並ばれているのだろうか、不安とともに正月の新聞を開く。
テレビで「新年祝賀」のニュースを見る。
この頃では宮内庁のHPの動画も加わった。

今年はあれほどハブられていた敬宮殿下に美智子皇后が天皇に覆いかぶさるようにして、敬宮殿下の折り紙の世話を焼いていた。
なんか悠ちゃんは、遠くから(美智子皇后の陰から)天皇が、背後からは彼の両親が念を送るばかりで、ほたらかしという感じだった。
そして用が済むと敬宮殿下は後ろへ追いやられ、カコマコと同格の扱いを受ける。
「女宮家」はこの3人ですよ、と言わんばかりだ。

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皇居では毎年暮れになると、天皇家の新年用の写真撮影が行われる。三十七年の撮影時には二歳のナルちゃんが、
「おじじちゃま(天皇)はここ、おばばちゃま(皇后)はここ」
と、ご一家の立つ”位置”を決めてしまった。両陛下は目を細めて「そうか、そうか」とナルちゃんの指示に従ったという。


37年の写真は上のものらしい。
「一番えらい」おじじさまは端っこで、「2番目にえらい」パパは後ろで、ママは前、美智子妃が困ったように立っておられ、明仁皇太子は苦笑い、あとの方は大笑いである。

平成皇室にはどうしてこういう写真が一枚もないのだろう?


  

思えば昭和皇室の正月写真は新年の喜びに満ち溢れていた。
良いことばかりではなかったと思うが、それでもお正月には「今年はいい年にしたいね」「そうですね、お上」と言い合っておられるようなそんな写真だった。

平成皇室から「祝ぐ」という雰囲気が消えて久しい。
シンメトリーに並ぶ皇室の方々の正中線は見事に美智子皇后になって、5年前には夫婦スワップ(正月早々お下劣な言葉でごめんなさい)まで加わった。
今まで後ろに立っていた鯰夫婦が前列にしゃしゃり出て来て、代わりのように5歳の敬宮殿下が後列へ立たされた。
小さなお顔しかでていない写真を見、、敬宮殿下がジャマにされているような感じを持った。

それから毎年毎年、今年はどんなふうに並ばれているのだろうか、不安とともに正月の新聞を開く。
テレビで「新年祝賀」のニュースを見る。
この頃では宮内庁のHPの動画も加わった。

今年はあれほどハブられていた敬宮殿下に美智子皇后が天皇に覆いかぶさるようにして、敬宮殿下の折り紙の世話を焼いていた。
なんか悠ちゃんは、遠くから天皇が、背後からは彼の両親が念を送るばかりで、ほたらかしという感じだった。
そして用が済むと敬宮殿下は後ろへ追いやられ、カコマコと同格の扱いを受ける。
「女宮家」はこの3人ですよ、と言わんばかりだ。

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皇居では毎年暮れになると、天皇家の新年用の写真撮影が行われる。三十七年の撮影時には二歳のナルちゃんが、
「おじじちゃま(天皇)はここ、おばばちゃま(皇后)はここ」
と、ご一家の立つ”位置”を決めてしまった。両陛下は目を細めて「そうか、そうか」とナルちゃんの指示に従ったという。

37年の写真は上のものらしい。
「一番えらい」おじじさまは端っこで、「2番目にえらい」パパは後ろで、ママは前、美智子妃が困ったように立っておられ、明仁皇太子は苦笑い、あとの方は大笑いである。

平成皇室にはどうしてこういう写真が一枚もないのだろう?


  

「愛子は風邪を引くことも多く、打ち解けて話せない」
「愛子とのお話出来る交流はありません(キリッ」

もうちょっと言い方があるだろうに、と思った国民は多かったと思う。

だから、「もうこちらの方はよろしいのではないかしら」の反論が、宮内庁HPに出たようだが、式部職のグダグダだらだら文章が、「こんな言い訳にもならない文章をだして、やっぱり本当か」といよいよ疑惑を深くする。

これが、先帝の話だったら「君側の奸!(誰や、こんなアホンダラなこと言いよるんは、キッ!)」と、週刊誌の方をはなっから信じないのだけれども、これが今上さんだから・・・「明仁と美智子、あの人たち、こんなん言ってそうや」となるのが、一番の問題点なんだよね。

そこがね、悲しいよね、平成も満23年を終えようとしているのにね。


  

香淳様が描かれた草木はきっと那須の植物として昭和天皇のご本に載っていると思って、見ていましたら、敬宮愛子内親王のお印、シロヤシオ(別名ゴヨウツツジ)の写真が載っているのを見つけました。

那須の植物誌は昭和天皇の観察日誌でもあります。
昭和天皇がその植物をご覧になった記録です。

何となく敬宮様を昭和天皇が見守ってくださっているような気持ちになります。

序文より
「毎年、夏を那須で過ごす。6月に来たこともあるがごくわずかで、主として7月半ばから9月のはじめまでである。それをしあわせとして、付近の自然を楽しむことにしている。
ここの植物を、はじめて調べたのは大正の末年だが、そのころはあまり熱中したこともなく、途中戦争に寄る中断もあって、そのままになっていた。相当身を入れて調査にあたるようになったのは、昭和23-24年からのことである。・・・(中略)・・・本田正次、木村有香、佐藤達夫、北村四郎、原寛、伊藤洋の諸君には、標本を同定してもらったり、また同伴して野外での観察を続けるようにもなった。・・・・そのような事情から、上記の諸君の考えもあって、この本を公にすることにした。標本の同定には、大井次三郎および佐竹義輔の両博士があたってくれたこともある。それら諸君のほか、このたびも、冨山一郎博士をはじめとする生物学研究所の諸君をわずらわすことが多かったが、なかんずく、川村文吾君は、私が直接観察することのできない時期と地域とに、たびたび出かけては調査してくれた。写真は、ほとんどすべて保育社の横井斉君の撮影にかかる。もとより本書の出版全般について、保育社の諸君にたいへん世話になった。以上列挙した関係者のすべてに、衷心感謝の意を表する。
私は、日本の各地域で植生の調査が今よりもいっそう進むことを願っているが、その意味からも、自分にできる那須付近を調査したまでである。
那須にくると、いつも私は自然が生きているように感じる。那須の生きた自然に親しみながら、今年の夏もまた、私は植物の観察を続け、いくつかの新しい事実を本書に書き加えることができた。動物や植物が、いつまでも静穏な環境の中で、その生を営むことができるように祈ってやまない。そのような気持ちから、那須の植物の姿を正確にとらえておきたいと考えたからのことである。

昭和46年11月                                  裕 仁   」



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自己紹介:
某掲示板で知り合って、メールをやりとりするようになった仲良し?人組です。
考え方はそれぞれですが、皇太子様御一家を陰ながら応援したい気持ちは一致しています。
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