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がんばれ東宮職!
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 ガーネット様は中国のアンチ東宮について興味を持っていますから、ちょっと紹介させていただきます。

 中国のアンチ東宮はだいたい日本のアンチ東宮の話しをそのまま訳して、自分の考えや「証拠」として扱います。時々私たちの掲示板ですごく失礼なことを書きます。
 たとえば、ハーバード大学卒と学習院大学卒は同じレベルだとか、紀子さまは皇室を救う人だとか、秋篠宮夫婦の純愛物語を繰り返すとか。。。だいたい日本のアンチと同じことをやっています。
 アンチ東宮は中国最大の掲示板「天涯」で美智子皇后、紀子妃を褒めながら、雅子さまを軽蔑しています。

http://www.tianya.cn/publicforum/content/funinfo/1/1814070.shtml

そのうち、雅子様のファンでない人々が出現して、アンチ東宮の馬鹿馬鹿しい話しを批判しました。アンチ東宮に洗脳された人はあまりないですね。


 中国の人々はそんなに日本皇室のことをしらないですから、ただ顔から判断して、秋篠宮夫婦の顔より、東宮夫婦の顔のほうが好きですね。
 

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wenrou様からメールをいただきました。
昨夜は、なぜかここへ書き込めなかったので、ということでした。
白熱していましたからねw

外国でも日本の皇室の話題はいろいろ出ているようです。

 

華子妃殿下のお支度については、故高松宮喜久子妃殿下が次の様に仰られていた。 

ご婚約が決まった時、香淳皇后陛下が高松宮妃殿下に、「着物など、見立ててやって欲しい。」と仰られたと。高松宮妃殿下と、華子妃殿下の御母上が御同級であられるという御縁があり、高松宮妃殿下は快諾。そして、秩父宮妃殿下、三笠宮妃殿下にもお声をかけ、皆で楽しく、着物を選んだと。 

私はとても微笑ましい、そして、華子妃殿下はお幸せな方、と思いました。嫁ぎ先からこのように温かく、嫁入りを待たれている、ということですから。これを、自分達で支度出来なかったから、なんていう人います。多少そういう面もあったかもしれませんが、それとは違う次元の話のように聞きました。可愛がられていらしたのですね、華子妃殿下、とだけ、思いました。 

こんな話、聞いたことがあります。 
初等科の学校行事に、義宮殿下(常陸宮殿下)がお出ましになり、その際、あまりに可愛らしいお嬢さんがいらして、思わずカメラにおさめてしまった。出来上がったその写真の裏に「義宮写す」と記し、「このお嬢さんに渡しておいて欲しい」と、頼まれた。結局、その写真が、被写体のご本人の手に渡ることはなかった。が、後に、その写真のお嬢さんが誰であるか解った。 
なんと、その人は・・・。 

全て申さずとも、ここの奥様方ならお解かりいただけましょう。人の縁とは不思議な、そして、なんとも素敵なお話と思いました。 

私はテニスコートのくだりより、好きですね。


常陸宮御夫妻のご結婚が決まった時、美智子サンに、「気にしないように」といったそうですね、ご主人。「ショミンの代表として嫁いだ!」なんていきまいていたのだから、堂々としていたと思っていたのですが、「気にしないように」といわれた、ということは、気にしていたということですね。 


それから、見立てていただいた着物類を、素直に、嬉しく受けるお人柄でいらっしゃるわけです。華子妃殿下は。美智子サンだったら、きっと、趣味に合わないとかなんとか、いちゃもんつけたでしょうね。 

ご成婚の時、見立てた着物が良くお似合いでいらしたのが、とても嬉しく、ほっとした、とも、喜久子妃殿下は仰られていました。 

良いお話、と思います。 
そして、この喜久子妃殿下が、雅子妃殿下に昭憲皇太后陛下から伝わる扇を贈られたのでした。

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匿名様がコメントとして寄せて下さったエピソードですが、華子妃殿下に関するものは、本当に少なくて、貴重なお話と思いましたので、記事にさせていただきました。
それでは、次に三島由紀夫の思考を見ていきます。 

前回の復習になりますが、1960〜70年頃に、 

三島由紀夫は「天皇は現人神であれ」=「楽屋はないと言え、この演目だけが現実だとやり通せ」と主張し、 
一方、マスコミや当時の皇太子妃他は「私生活が皇族の意義」=「楽屋こそ、最高のステージ」と誤解してしまいました。 

皆さん、2011年の現在、この二つの思考法がおかしな形でくっついて、皇室を取り巻いているように感じませんか? 

そして、前回、昭和天皇について長く書いてしまいましたが、裕仁という人の実体は、合理的思考の持ち主で、考え方が一貫していて、自己陶酔したり捨てばちになったりしない人でした。 
これは素晴らしいしいことですし、どうも現代の皇室で失われがちな感覚ではないかと、皆さん思いませんか? 

それはともかく、三島由紀夫のことを考えていきます。 
自分は文学に詳しくなく、三島の作品も少ししか読んでいない体たらくです。ですので、「英霊の聲」と「憂国」「十日の菊」の3つの作品と、「三島事件」についてに絞って考察します。 
三島事件はすなわち、三島由起夫が楯の会メンバーとともに、市ヶ谷の陸上自衛隊総監部を乗っ取り、自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件です。 

「嗚呼、非合理だなあ」とすでにタメ息が出そうですが、先にその非合理性について分析します。 

まず、三島は記号と実体をごっちゃにしています。(他も色々混乱させていますが。) 
記号=三島由紀夫という思想家が、自衛隊を思想的に喚起しようとした。これは良いのですが、それで何故、実体=平岡公威(本名)という人が切腹をしなければならないのでしょう。 
しかも、平岡公威さんは良いパパだったようです。 
子どもから見たら、 
「などてパパは切腹したまひし」ですし、 
「などて三島由起夫はマイホームパパとなりたまひし」です。 
英霊達が昭和天皇を信じていたと言うなら、お子さん達も平岡公威パパを信じていたはずです。 

昭和天皇のように軍部に押されて仕方なく・・というのではなく、平岡公威パパは自ら家庭人として子どもを作り慈しんでいて、そのくせ自ら事件を起こして切腹したのです。しかも内蔵が出ていたという報道や、生首写真などの恐ろしいイメージを残して。 
我が子や、その周囲の子ども達に、迷惑千万じゃないですか! 

それから、自衛隊へ対し行った事も非合理です。 

「日本国憲法や日米安保体制では、自衛隊は日本国軍にはなり得ず、アメリカ軍に属す一部隊のようなものだ、情けない、日本国の軍として目覚めよ」と、自衛隊を鼓舞することは良いと思います。 
「その通りだ」と思う部分もあります。 
しかし何故、切腹しなければならないのでしょう。 

軍隊は戦うためにあり、戦争するからには勝つようにしなければなりません。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とか「生きて虜囚の辱めをうけず」等と考えるのは「葉隠れ病」のようなもので、強くて独立した軍隊を望む者の考えではありません。 
葉隠という書は、江戸中期の太平の世で、日常全く戦っていない武士が、武士の在り方を空想的かつ美的に描いたものです。このような書に軍隊がカブレてはいけません。 
(第二次世界大戦時に東條英機が作った「戦陣訓」も「葉隠れ病」です。) 

1970年当時は、ベトナムが果敢に大国アメリカと戦っていた時期です。ベトナムでは、例えば女性は、バンザイと言って崖から飛び降りたりせず、アメリカ軍に雑用婦として雇われ、しかし食料を時々くすねてゲリラの同胞達に渡し、かつ夜になるとこっそり地雷を埋めてアメリカ軍を妨害していました。 
美的ではないが「小国でも勝つ気のある戦い方」です。 
三島由紀夫は、ベトナム兵の粘りとしたたかさを礼賛して、自衛隊を鼓舞すべきだったのではないでしょうか。昼時でしたから、自衛隊員に檄文と共に生春巻きを配っても良かったかもしれませんね。 

しかし、しかし、三島由紀夫は、何が何でも、自分の美学で行動したかったのでしょう。その原動力には「陶酔」「エロス」があったのでしょう。 

実体=平岡公威自身は、記号=三島由紀夫としての美学を貫くために、平岡公威自身の生活は置いてきぼりにし、エロスだけ道連れにして逝ってしまったのです。 

このように、非合理性が強い三島事件ですが、大きく未来を示唆するものもあったと思います。そこが、芸術家としての三島由紀夫の才能だったのかもしれません。 

ですので、ここからは、三島由紀夫の先見性について分析します。 

一つは、民主化と経済発展で浮かれたようになり、「戦争の時代に日本がしていたこと」「英霊達のこと」を日本人がすっかり忘れてはいけない、という訴えかけです。 

もう一つは、日本から「道徳」が失われているということ、「日本は空虚で、経済的な成功だけを追っている」という訴えかけではないかと思います。 

「私の中の25年:三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義」 
死の4ヶ月前に三島由紀夫が新聞に寄稿した文章の一部です。 
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」 

バブル時代や、格差時代の来る前に、このような閉塞感を予測していたのは、偉いなあと思います。 

そして、このような状態は、戦後民主主義がもたらしたと三島由紀夫は言うのですが、私は、それよりも、戦後の急激な価値観の変容を日本人があっさりと受け入れてしまったこと、そして「教育勅語」のような、充分まともな部分がある道徳教育を、皇祖皇宗といった言葉があるからと、教育から除外してしまったことが大きいように感じます。 

昔は尋常小学校に載っていたという、昭憲皇太后の作られた歌「金剛石・水は器」なども、充分まともな道徳であったと思います。 

しかも、政治への関心は、市民主義の「権利と義務」であるのに、日本人は、60年代後半に熱狂的ブームのように「政治の季節」を迎え、しかも、その後始末もせずにブームとして忘れました。 
高校、大学などの「自治会」は顧みられなくなり、自治をめんどくさいと手放しました。こうして学校教育はより閉塞感のあるものになり、いじめ恐怖や群れ願望が子どもを覆うようになりました。 

日本は、古来からの価値観と美徳を忘れ、しかし、外国からもたらされたデモクラシーの本質は理解せず市民としての義務を怠った。 
(みんなで話題にしている、例の老いたご夫婦のようですね。) 

と、そういう危機感を三島は訴えたかったようにも思うのです。 
が、そこで神国とか言ったり、切腹などしてしてしまうから、古来からの善き価値観に、また非合理な葉隠れ病が染みついてしまいました。三島由紀夫は、困ったちゃんだなあー。 

次には、現代の天皇制の問題と現状について考えたいです。 

その5へ続きます。 
 
それでは次に、昭和天皇の思考方法を見ていきましょう。 

昭和天皇にとっては、天皇という「記号」と、裕仁自分自身と言う「実体」は、明確に分けて考えられており、それは二十歳の頃から亡くなるまで一貫していたように思います。 
天皇という記号は重要で、それを担うという責務は重大だと考えつつ、それだから自分自身の実体がいきなり立派になるとは考えず、役目に耐えうるような実体になるように地道に努力していたという感覚でしょうか。 

天皇制という重大な演目(決まり事と言ってもいいかもしれません、演劇ではないので)は、日本国の運営のために欠かすことができないと信じていた。そしてその主役をやるからには、時には装束に身を包み神に祈り、時には国会で大臣を認証し、時には軍馬にまたがり軍の観兵式に臨む。それは誠心誠意やる。大雨の中に立ち続けてもやり通し国民と日本国に真面目に対応する。しかし、楽屋=宮中の私室など、に入れば一人の人間である。 

これは、昭和天皇一人の感覚ではなく、昭和の初めには、貴族であれ、政府であれ、その多くの人は、自分は天皇制という国家の演目の何々係であると考えていた。あるいは、国家運営のために、この演目を使う側だと自分を位置づけていたのではないでしょうか。 
大正天皇が皇太子であった頃は、予定をはずれて自転車で出かけたり、国民に気軽に話しかけていたという記述もあり、ある時まで日本国を運営する側は冷静に天皇制を見ていたと思います。 
「天皇は現人神である」と考えたりしてはいなかった。 

その一方で、国民津々浦々には「教育勅語」として、比較的ふつうの道徳論の上に、天皇への忠誠を置いて教育しており、ここが後々問題点になります。 

「天皇が神として国民とまったく遊離しているのは、過ぎたることだと思う。皇室は英国の皇室の程度にして、国家国民との関係は『君臨すれど統治せず』という程度がよいと考える」 
「いったい、軍が天皇機関説を悪くいうのは矛盾じゃないか」 
「憲法第四条の『天皇は国家の元首云々』は、即ち機関説である。これを改正することを要求するとすれば、憲法を改正するほかない」 
「皆と同じように内蔵を持っているから私も人間だ」 

というように、二十歳の頃からずっと、昭和天皇はいたって合理的に考えながら、日本が神国となり全体主義になることを止めることも出来なかった。 

まったくもっておこがましいけれども、昭和天皇を評するとしたら、弱点としては、立憲君主にこだわり過ぎていた事と、決断が少し深長すぎるという事が言えるのではないでしょうか。 
当時の大日本帝国国憲法は、軍の統帥権も天皇にあり、プロシア型の憲法だったから、天皇はむしろ「啓蒙思想を掲げる絶対君主=啓蒙君主」として、おりおりに御聖断をして、軍部の非合理性を押さえた方が良かったかもしれません。でも、そうしたら昭和天皇は隠岐に流され、弟君の誰かが天皇に奉られていたかもしれません。 
大正モダニズムから、昭和10年過ぎての急激な右傾化は、その時代に生きていなかった自分にはわからない民族の無意識的な暴走があったのかもしれません。 

一方、昭和天皇の長所は、常に合理性を重んじ、自分の立場に自己陶酔することも、捨てばちになることもなく、摂政になった20歳から87歳まで、天皇の役割に前向きに取り組んだ事ではないでしょうか。 
戦争末期に独り言をおっしゃりながらぐるぐる歩いていたのは知られていますが、軍も政府も嘘の報告をしてきて信用成らず、相談する相手もいず、兄弟も軍に取り込まれる可能性があり、それでも発狂もせず、誰かを苛めもせず、敗戦を受け止めたのは「実体としての裕仁自身」の不断の努力であったと言えると思います。 
また在位期間一貫して生物学者として研究に取り組み、天皇という役割から解放されるリフレッシュ時間を設けるなど、セルフ・プロデュースも上手だったと思います。 

さて、日本と天皇は敗戦を迎え、そして天皇制は民主主義国家とともに歩むことになります。 

「などてすめろぎは人となりたまひし」。 
これは、1946年に発布された昭和天皇の詔書、通称「人間宣言」への批判と言われています。 
海軍の神風特別攻撃隊の英霊達が、国体と天皇の永遠性と、自分とが一体化することを信じて玉砕したのに、天皇に人間宣言をされては、魂の行き先がないと、「などてすめろぎは人となりたまひし」と昭和天皇に恨み言を言う。それが、三島由紀夫の「英霊の聲」の主題です。 
(2.26事件はさらに複雑なのでこの考察からはずします。) 

すめろぎである昭和天皇としては、ずっと人間だったしそう考えていたのがやっと公になっただけなのに、神をやめるとは無責任と言われるのは、どういうことだ、となるかと思います。 
しかし、行きすぎた精神論を振りかざした軍隊も、昭和天皇を大元帥に据えていたのであり、昭和天皇が反対しても聞かなかったがそれでも、天皇にも責任はあるのだから、英霊達が「自分たちと共にあってくれ」と言うのも理がある。 

一方、昭和天皇は、敗戦責任はとりたいと、退位などはなんども政府に切り出していたと思います。しかし三島の提案のように「宗教観や空想性いっぱい」に「陶酔した感覚」で責任をとるのは、断固ご免被りたいというところではなかったでしょうか。 

ただ陛下御一人,神として御身を保たせたまひ 
そを架空,そをいつわりとはゆめ宣はず 
(たとひみ心の裡深く,さなりと思すとも) 
祭服に玉体を包み,夜昼おぼろげに 
宮中賢所のなほ奥深く 
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき 
神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き,ただ祈りてましまさば 
何ほどか尊かりしならん 

この尊い陛下とは、天皇と言う「記号」なのか、裕仁自身と言う「実体」なのか判りません。 
と言うか、裕仁自身と言う実体は、心の裡深くでは架空だなあと思っていても、「この世に楽屋はない、この演目だけが現実なんだ」と、フィクションをやり通せと言うのが三島の注文でしょう。 

さて、戦後に「人間宣言」などをし、長年の理想だった「立憲君主」になった昭和天皇は、再び政府や軍が、天皇や皇室が「現人神」だと言い出したりする事がないように、天皇や皇族の「人間らしさ」を多少見せるという工夫を始めます。(そう政府に勧められたというのもあります) 

そこで、私達皇族の人間らしさはこんな感じですと、今まで「プライベート空間=楽屋」だった部分を一般に公開するようになります。これがいわゆる「開かれた皇室」です。 

しかし、ここから問題点がまた発生していきます。 
「開かれた皇室の暴走」です。 
あくまでも「楽屋もあるんですよ」と、自分たちの私生活を少し露出するはずが、「楽屋もまたステージである」という風に誤解する者達が現れた。 

楽屋にどんどんスポットライトを持ち込むような、私生活こそ皇室の証であると言うような逸脱です。 
この逸脱は、マスコミと当時の皇太子妃の誤解により助長されたと思います。 

三島由紀夫は「楽屋はないと言え、この演目だけが現実だとやり通せ」=「現人神であれ」と主張し、 
マスコミや当時の皇太子妃他は「楽屋こそ、最高のステージ」=「私生活こそ皇族の意義」と誤解した。 

現代の皇室への混乱の種が蒔かれました。 

その4に続きます。 
1970年の11月25日。ある学習院初等科生のお父さんであった三島由紀夫は、ある学習院初等科生のお爺さんの事を「万歳」と叫び、自決をしました。これは、たまたま同じ時期に同じ学校にいた子どもにとっては、なんとも理解するのが難しい事件でした。 

しかし、この事件を解明することで「今の皇室をめぐる問題点」が判りやすくなるかもしれない。そう自分は考えております。 

この難しい事件を考えていくために、まず「人」というものを、概念や記号と、実体とに分けて捉えたいと思います。 
つまり「北白川殿下」とか「近衛丸丸」と言うのが記号であり、「23kgの元気の良いせっかちな男の子」とか、「少し太っていてはにかみやの女の子」とかが実体です。 
そして、その実体は精神と肉体とから成りますが、その両方の原動力の一つとしてエロスを捉えます。 

それから、この事件の解明のために、1学習院という場、2昭和天皇の考え方、3三島由紀夫の考え方、4現代の天皇制の問題と現状、という4つの切り口をもうけたいと思います。 

それでは、まず「学習院という場」から考察していきましょう。 
学習院という学校は、創設以来長らく「記号」上の意味の大きなお子さん達を預かっていました。そして、そのお子さん達の「実体」を育成していました。 

例えば明治の時代は、官軍の師弟と賊軍の師弟が同窓だったりもしたでしょう。しかし、何か心の軋みとか反発意識とかはあっても、とりあえず同じ学校の学生としては平たくいこう、というのが校風としてあったはずです。 
常磐会の会長をされていた方の文章をご紹介します。多分、大正10年頃のお生まれの方かと思います。「確か一、二年の頃と思います。私は初めて全甲をとりました。嬉しくて通信簿をまわりの方に見せてにこにこしていた時、『先生方は宮様にはみな全甲をつけるのよ』という声が耳に入りました。強いショックを受けました。(中略)その時から、だまっていつか実力を認めて貰うほかないと思いました。」とあります。 
学問のもとに皆が平等であるはず、という建前があり、それがそうではないかもしれない、という逆差別のような意識も働いてる、戦前の学習院生徒らしい心の綾です。 
昭和天皇も、乃木院長に他の生徒とわけへだてなく厳しく接されて、喜んで初等科に通われていたと伝わっています。 

みんなで同じ空間にいれば、「あの人達も食事をする」「自分と同じ物を食べた」「トイレに行った」とわかるわけです。皇族と男爵の身分などは違っても人間同士であるという事を、子ども達の心にそれとなく共有させながら、実体としての人間の育成=勉学を進め、友情を育み、人間力を高める、に励ませていた学習院。 
この「それとなく」というのが、「学習院らしさ」の一つではないかと思います。やんごとなき人達を守る行為は、それとなく行わなければならない。 
学習院は大きな記号性を背負った子ども達の「プライベートな場」だったと思います。もっと言ってしまえば、表では偉く振る舞わなければならない人達が記号から解放される「楽屋」みたいな場所だった。 

人間は、24時間いつでも偉いという訳にはいかず、お風呂に入ったり、詔の練習をしたりする。ですから、使用人は宮中で見た事を他言してはいけないという決まりがあり、御所の中はプライベート空間で楽屋だった。これも、戦前は守られていた事であると思います。 
戦後になって、その決まりが緩くなった。知っている方のお婆さまが女官だった時に、昭和天皇のミッキーマウスの時計を拭いていて落としてしまったそうですが、そういう事がもれ聞こえてくるようになった。しかし、やっぱりその時代の人は、やんごとなき人達を守るために大事なことは口外しなかったと思います。 

さて、話を自分の時代の学習院に戻しますが、戦後になり、平民も入学できるようになった学習院は、1960年後半〜70年には、平民が居心地悪いわけでもなく、でも、昔は偉かった人達があるパーセンテージいたので、皇族もそんな人達のトップバッターみたいな感じで存在している学校でした。当時は、家元などで家業を継がないとならない人達も居て、浩宮さまが職業選択の自由がないのも、多少は周囲と馴染んでいました。 
そして、1970年の学習院には、まだ、「身分は違っても人間同士であると、それとなく悟らせる」「特別な人達をそれとなく守る」「学習院はプライベート空間である」という気風がありました。 
例えば、浩宮さまの学年に何かが改善され、少しだけ優遇されるような事もあったのですが、その前の学年の後半から行って、マスコミには気づかれないようにするという気配りも、学習院はそれとなく行っていました。 

ただ、美智子妃さまは、学習院が楽屋であると考えず、ステージだと考えていたようなところがあって、ちょっと浮いていたかもしません。 

1970年11月25日、なぜあの三島事件の日を自分は覚えているのか。当時は左翼の争乱などで電車通学が危険な日は学校の休みなどの処置がとられていたので、あの日も学校側が何か対策を考慮し、生徒も知ったのかもしれません。当時は今よりも騒動が多く「新宿争乱」などは、自分たちが通っている駅が市街戦の場になるというトキメキがあり、翌日壊れたホームに立って電車を待つ気分はとても面白いものでした。 
それでも、あの三島事件は怖くてかつ「的外れ」のような可笑しさもありました。 

しかし、学習院はそのまま、幾人かの先生がムニョムニョと何かつぶやいただけで日々を送っていったと思います。三島由紀夫のお子さん達は、私からは断然気の毒に思えたけれど、学校は、大きな対策も、騒いで傷口に塩を塗り込むような事もせず淡々としており、周囲の父母も静かにし、お子さん達も転校などせずにその後も過ごしておられたように思います。 

それが、学習院の「実体としての子どもを守る楽屋」としての底力であったかもしれないと、最近は思うようになりました。 

それでは次に、三島由紀夫に「などてすめろぎは人となりたまひし」と言われた昭和天皇の考え方について、考えてみたいです。 

その3に続きます、 

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♠ 三島由紀夫自決の日の初等科 その2追加
すいません。学習院初等科に通っていた三島由紀夫のお子さんは一人でした。記憶違いです。所詮自分はこのていどの外野であります。 
もう一人のお子さんは、お茶の水付属に通っていました。同じお茶の水に在籍し当時そのお子さんの顔見知りだったという方が、11月25日に、そのお子さんの事を気遣い、ショックで頭が真っ白になったと言う事をブログに書かれていました。 

(お茶の水付属では昼休みに生徒達が自由に教室のTVを見ることができ、そこで事件を知ったということです。さすがに開明的です。 
学習院が、社会の授業など以外にTVを見たのは、1969年に人類が初めて月面着陸した時くらいかと思います。) 

その方も、同窓生へのもっと私よりリアルな心配と、加えて事件の写真や報道のおどろおどろしさに恐怖に駆られたそうです。 

1970年には、よど号のハイジャック事件なども起き、日本は経済発展しながら世相は大いに揺れていました。しかし、当時はベトナム戦争という、明らかにアメリカの手前勝手な戦争もあり、一般人の気分は左翼に共感が強く、よど号事件などは「やったなあ」というような見方が大きかったと思います。それは子どもにもなんとなく判りました。全共闘や左翼に民衆がはっきりと失望したのは浅間山荘事件だと思います。 

それに比べ、三島事件は変わった事件で、一般人は共感というより不可解という気分だったように思います。不可解だった点は自衛隊員にとっても同じだったのではないでしょうか。 

しかし、その影響があったのか無かったのか、学習院では国語の先生が、乃木院長の訓戒のようなものを廊下に貼りました。 
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某掲示板で知り合って、メールをやりとりするようになった仲良し?人組です。
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