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がんばれ東宮職!
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ここには、古典に詳しい方、作歌に長けた方、たくさんいらっしゃいます。
古の装束について、ご存知の方もいらっしゃると思います。
衣紋道史料の保存収集の「高倉文化研究所」主宰の著作から、「汗衫」の説明文を引用します。

「汗衫」は上着である「袍」の背の部分がたいへん長く、清少納言が「枕草子」の中で「尻長と言へかし」と言っているほどです。
「汗衫」の装束の構成は、濃色の「長袴」に白浮織物の「表袴」を着け、「単」を着してその上に子供用の「衵」を何枚か重ね、さらに「打衣」を重ねた一番上に「汗衫の袍」をまとう、というものです。腰は男物のような「石帯」でとめることも、「当腰」でとめることもありました。さらに、袍の形もさることながら、長袴の上に短い袴を重ねてはくのも、ほかの装束には見られない特徴のひとつです。


敬宮殿下の白菊の丸の細長とは、襟の形が違うことがお分かりかと思います。
衽(おくみ)がないので、羽織る形なのは「細長」と同じだけれども、後ろは長い袍を引いた形。
あと、違いで言うと「汗衫」というのは厳密に言えば、装束の一つで、表着や袴などトータルなものの名称であること。
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♠ グラスもさー
きちんとした研究者が書いた本に書いてあることを信じなさいよ。
管理人の意見は愛子さまの赤い十二単みたいなのが「細長」というやつで、ピンクの着物は管理人は最初は何かの上っ張りだと思っていたけど、後水尾天皇の時代には皇女は「衵」で着袴の儀をやったと書いてあるから、ピンクのは「衵」でこれも正式な着物だからこれでやったのだと思うって言ってるんでしょ?
異を唱えるなら管理人と同等の文献出して反論しなさい。
あんたの知識はあてにならないからさ。
Rosa wichuraiana 2011/11/05(Sat)11:27:42 編集
♠ 時代ごとの服飾を見るのなら
風俗博物館というところのHPに詳しいのが載っています。
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000001

これを見ると、平安時代の「細長」とも「汗衫」とも、管理人様があげて下さった「高倉文化研究所」のものは違う、ということがよくわかります。
時代と共に変わっていったんですね。
平安時代だと、細長は若い女性の略礼装(小袿姿よりもおしゃれな感じ)だけど、正装ではありません。
主人の前で着る服ではなく、むしろご主人様がおしゃれをされる時のイメージ。
神事に臨むときは、たぶん神の前では内親王とはいえ格下ですから、正装。そのときは裳唐衣(成人)か汗衫(童女)になると思う。
細長は正装にはならない(平安時代なら)

でも、実際に紀宮さまは、平安時代の服飾では「汗衫」ではない(一番近そうなのは小袿かなあ)姿で深曽木の儀に臨まれ
それを「高倉文化研究所」での説明では「細長」と解説する。
やっぱり服飾は時代ごとに変わっていき、皇室は現在の衣紋道に従って、なのでしょう。

あるいは衣紋道のなかでも少しずつ変化?
江戸初期には内親王の深曽木の儀は「衵」姿で行っていたのが、昭和は「細長」姿なのだそうですから。

なお、2chに貼られていた「着袴(深曽木)の儀」の写真集のなかで、照宮様の細長姿のお写真だけが、
12才の時のもの、でした(着袴の儀のときの写真ではない)。
そこからペリドットの妄想は膨らむのですが。

それより今回のペリドットなりの発見(?)
袴が「切袴」なのと、「袴+表袴」なのでは、足元が全然違うんですね。
風俗博物館の日本服飾史の写真集のうちの、平安時代の公家童女の汗衫姿(夏のと正式の冬のものと)二種を見比べるとよくわかります。

この記事の写真の「汗衫姿」の足元は、「袴+表袴」ですね。

一方、敬宮様が報道陣の前に出てきたときの袴は、切袴ですね。

管理人様の指摘されるように、敬宮様の儀式当日の装束が、
のちに即位された興子内親王の故事にならって、衵姿・切袴での深曽木の儀だったのだとしたら
(そのお姿のまま、報道陣の前に姿を見せられたのだとしたら)
非公開の当日の儀式では、碁盤の上に乗られただろうし、
場合によっては碁石を踏んで飛び降りるのも難しくなかったことでしょう。
(ご利発な敬宮さまなら、リハーサル無しでできるもんね)

まあ、碁石うんぬんは、まったくもってペリドットの妄想ですが、
ともかく、衵・切袴姿での深曽木の儀なら、友納さんの記事にさりげなく書かれていたように、
敬宮さまが碁盤に乗られた、というのは十分あり得る話だと思います。

ペリドット 2011/11/05(Sat)11:32:16 編集
♠ 無題
NONAME 2011/11/05(Sat)12:18:20 編集
♠ 「切袴」がキーなのですね!
いきなり敬宮殿下の装束の話に突っ込みをいれてきたのは、グラス的には、衵・切袴姿を認めたくないわけか。

>着袴と深曽木。
>両方使われたかもしれないですね。
>マスコミのためだけにあの姫だるまさんの御装束になられたというのも
>考えにくいんですよ。
>袴は短い切袴と細長では長袴です。
>碁盤の上にお乗りになったというなら、その場合は切袴かなぁ?

>衵・切袴姿での深曽木の儀なら、友納さんの記事にさりげなく書かれていたように、
>敬宮さまが碁盤に乗られた、というのは十分あり得る話だと思います。

なるほど!!!
長い未来を展望される皇太子ご夫妻だったら、可能性にそなえて、江戸時代の皇女にならい「深曽木の儀」をされていても、なんら不思議ではないですよね。

そして、その衵・切袴姿が、実に凛としてお似合いになる敬宮殿下。
そのお姿は海外まで配信され、日本のプリンセスとして愛されています。

敬宮殿下が、闇勢力に執拗に叩かれ続けたり、「なつかない」などとコンプレックス爺さまに意地悪を言われたりするのにも、合点がいくというものです。
ルビー 2011/11/05(Sat)12:25:01 編集
♠ 皆様、ありがとうございます
皆様、本当に博識なので勉強になります。
ありがとうございます!

そして管理人様はいつも、本物の研究者によって書かれた本を提示して下さるので、本当に勉強になります。
管理人様、いつもありがとうございます。
これからも宜しくお願いします!


で、衣装の話で思い出した事あります。皆様ご存知だと思いますが、大阪城近くに 「大阪歴史博物館」 というのがありまして、奈良時代の装束とかも展示されているようです。
平成になってTVで流れた装束と見比べてみると面白いかもしれませんね。
(私はこの博物館へ行く機会を逃したまま引越したので、詳細など言えないのが残念です)




そして、装束について手持ちのカンペーをひっくり返していたら 「着袴の儀」 ではなく、女帝が即位された時の記述部分を見つけたので書かせていただきます。


明正女帝の即位 (パパ:後水尾天皇 ママ:徳川和子)
8歳で即位
宝冠・白の大袖・小袖といった装束で即位 (全て新調)

公卿の二条康道が日記に 「袞竜を召すべき御事なれども、女帝にましませば、古代のためしに任せ、白き御衣なりとぞ聞へし」 と書いています。
(これは、820年頃以降の即位には「男帝は袞衣、女帝は白(帛)衣」という故実によったそうです)

※ 明正は、元明と元正の両女帝の諡号からつけられた死後の諡号


後桜町女帝の即位(パパ:桜町天皇 ママ:青綺門院舎子)
24歳で即位
白の大袖・小袖で即位したけど、沓は男帝と同じ赤(当初、孝謙(称德)女帝が即位された時の衣装を使用する予定だったが着用できず、新調)
※ 大嘗祭している

※ 大嘗祭・・・後柏原天皇より以降、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、明正女帝、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇は、貧乏カネコマ&天皇家の権威だけでは費用を調達できず、大嘗祭できなかった。
霊元天皇の次に即位した東山天皇は再興できたけど、次の中御門天皇は挙行できず。
大嘗祭が新天皇の即位に連動して支障なく行えるようになったのは、後桜町天皇のパパである桜町天皇が大嘗祭をした以降から。


他の女帝方が即位された時のことは、手持ちの資料に無いので分かりません。
でも、明正女帝と後桜町女帝の記述で考えると、
もし敬宮殿下が立太子されて、即位されるようになると、白を基調の衣になるのかしらん…なんて想像しました。
でも、敬宮殿下が即位されるなら、明治天皇以降からみたいですが、黄盧染の衣装で即位してほしいですね。
お肌が白くて何より品格も知性もあるので、平成さんより絶対にお似合いです(^^)
ガーネット 2011/11/05(Sat)15:19:05 編集
♠ 無題
NONAME 2011/11/05(Sat)15:55:53 編集
♠ 無題
話題が異なりますが、愛子様の字が上手すぎると話題になっているそうですね。

小学三年生のときの作文がどこかの雑誌経由で流出されたようですが、本当に達筆な字で驚きました。


悠仁さまは慶事のとき以外は注目されないだけあって、マスコミの目がない分、のびのびと育って明るい印象を受けますが、それだけなんですよ。


敬宮殿下は雰囲気もさることながら、作文の内容からしても、やはり直系の宮さまなんだなぁと威厳のようなものを感じました。

あえて帝王学の教育はなされてないとは思いますが、きっとご両親から自然に受け継がれていっているのでしょうね。


少し話が古くなるのですが、敬宮殿下が二年生の春休み、マスコミが「愛子さまは両陛下と昼食をともにするために御所に入られました」と報道したんです。

でも最初、テレビ朝日のワイドスクランブルは「陛下から歴代天皇の講習を受けるために、御所に入られました」と繰り返し言っていました。

あれはどういうことなのかと、今でも不思議なんです。

その後は「両陛下と昼食を摂るため」とだけしか報道されませんでした。

ファンタジー好きの男系派から抗議でも来たのでしょうかね。

歴代天皇の講義を陛下から直接受けるということは、即ち将来の天皇ということですものね。

陛下は「皇室典範の改正をお願いしたい」とはっきり仰っていますし、おそらく今上天皇は「皇太子の次は敬宮」と思っているのではないかと推測しています。

今上天皇は家長なわけですし、現実考えれば「皇太子の次は、秋篠宮、その次は悠仁に」などと言っていたら、皇室が滅ぶ可能性のほうが高いわけですし。


何にせよ、この作文を見たとき、127代天皇は決まりだなと思いました。


大体DNA鑑定をしたわけでもないのに、2000年間ずっと父系で受け継がれてきたのか怪しいものです。
みりぃ 2011/11/05(Sat)16:35:46 編集
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考え方はそれぞれですが、皇太子様御一家を陰ながら応援したい気持ちは一致しています。
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